Home ラジオニクス

「ラジオニクス - 未来のヒーリング法/ピーター・コーネ」
"Radionics, The Healing Method of the Future" by Peter Koehne

(ドイツ・Raum & Zeit社刊(1993)より、英訳されたものをさらに和訳しました)

イギリスの医療機関において、ラジオニクス療法士は医師と緊密に連携し、それぞれの分析結果は医師や看護師と自由に議論され、それが患者の生活を豊かにするために直接反映されています。一方、ドイツやアメリカのような、製薬会社が権力と尊敬の頂点にあるような国では、ほとんどの医師や大学教授ですら、ラジオニクスという言葉を綴ることさえできず、もちろんその原理や手法を理解していません。そんな有様ですからこのラジオニクスという言葉に対する反応は普通、こんなことになります。「あれは詐欺、もちろん効果は無いし、そもそも全く科学的ではない。」
しかし、いまドイツをはじめいろいろな国で、ラジオニクスは人々に、とりわけ独自の考えを持った医師たちや、ヒーリング療法士たちに、ますます関心を持たれるようになっています。このホリスティックな方法は、代替医療として、あるいは補助医療として、または伝統的な治療に変わるものとして、より多くの患者にも関心を持たれるようになってきたのです。

ラジオニクスは前世紀初頭に成功をおさめ、その後、イギリスでは何十年にもわたってオーソドックスな医療に替わるものとして使用され続けてきましたが、それ以外の世界中ほとんどの国では陰に隠れるように静かに生き延びてきました。この技術の潜在能力は極めて高く、分析とバランスを行う非常に有効なツールであり、他の方法による診断や処置を上回るものなのです。そしてこれはまさに学術医学を遥かに超え、ニュートン的世界観にも属しません。

ラジオニクスとは、ホリスティックな道を進む科学だ、と言えるでしょう。ラジオニクスを理解するためには、その始まりから後に続き改良を続けた人々の歴史、つまりパイオニアであったエイブラムスやドラウン、ヒエロニマス、デラワー、といった人々のことを知る必要があります。ラジオニクスの基本的な原理、手法、働きなどは、世界と生命のつながり、想像力と直感、幾何学的図形のもたらす影響、などといった形で何千年も知られてきたことでした。

その道のひとつはアーユルベーダとなりました。この、基本元素の調和についての理解は、キリストのはるか400年前にホログラフィックな世界観を述べていたヒポクラテスにつながるものです。医師であり、同時に錬金術師であったパラケルススは、ルパート・シェルドレイクより遥か以前に形態形成場という概念に到達していました。サミュエル・ハーネマン創始したホメオパシー。これはその基本原理の部分においてはラジオニクスのひとつの形とみることができます。特に高ポテンシーのホメオパシー剤は、元々の物質の存在が残存する可能性が無いほど極度に薄められており、そこに残っているものは情報の共鳴だけなのです。その情報をスカラーアンテナを介して送信することも可能な技術、それがラジオニクスです。

 

RADIATION + IONIC = RADIONIC

「Radionic」という言葉は、1930年代に「Radiation(放射)」と「Ionic(イオンの)」という言葉を組み合わせて作られた造語です。それはその形式を表現しただけではなく、当時の装置が持っていたプローブ(探り針)を通じて出入りするエネルギーを表そうとしていたと思われます。

今日の技術基準から考えると、ラジオニクス装置とは、ラジエスセシア(Radiesthesia)とエレクトロニック(Electronic)から来ている、と考えるべきなのかもしれません。それは、現代の装置は情報の場、形態形成場に働きかけてバランスを取るものであり、さらにオペレータの直感を利用し、特別に設計された装置でその能力を増幅する仕組みを備えているからです。ラジオニクスとはこのような高次の心的・霊的な力によって動作しているのです。

abrhams

ラジオニクスの起源はアルバート・エイブラムス博士(Albert Abrams 1863-1924)にさかのぼることができます。病理学の教授であった博士はカリフォルニアのスタンフォード大学医学部長であり、また、サンフランシスコ医師会の会長でもありました。相続した遺産によって裕福であった彼は、全てを医学とその研究に捧げることができました。
彼はまずサンフランシスコで学びましたが、年齢が若すぎたため学位を得ることができませんでした。その後、ドイツ語に渡り、ハイデルベルグ大学に学んだ彼はそこを成績最上位で卒業します。
その後はヨーロッパ各地で、当時有名だったさまざまな医師や研究者とともに共同研究を進めました。そしてアメリカに帰国後は、その数多くの実績により、すぐによく知られる存在となりました。

ラジオニクスの重要なステップは「奇妙な偶然の一致」から起こりました。唇に悪性腫瘍ができた中年の男性患者に対して、エイブラムスは当時の一般的な診断法であった「打診」を行っていると、臍の上あたりに、中に隙間ができているような鈍い音を感じたのです。特に彼が着目したのは、この音は患者が西を向いているときに限って起こり、他の方角、あるいは身体を横たえた状態では起こらなかったことです。彼は他の病気に罹っている患者も調べました。その結果、胃の周辺にそれぞれの病気に対応する音を発する場所を見つけました。この研究はその後も続き、彼はそれぞれの病気に対応する場所が示された打診用のマップを作り上げました。ここで重要なのは、この音を感知するには患者は必ず西を向いていなければならなかったことで、この西向きの方角を彼はCRP(Critical Rotation Point)と名付けました。

anatomy

その後、彼の生徒のうちの何人かがこの音の変化を感じることが困難だったため、エイブラムスは新しい方法を考案しました。それは、彼が「鈍い音」を感じた腹部の部分にガラスの棒をあててそれをこすり、「指がくっつく(スティック)」する感触の変化をみる、というものです。このスティック効果は、現代のラジオニクス装置でも採用されています。

エイブラムスはこの発見が従来の診断方法を完全に変えてしまうものになると考えました。彼はこの効果は通常の原子の振動に対して起こる偏差によるものだとし、後に「ERA (Electronic Reaction of Abrams) 」と名づけました。このERA技術が後にラジオニクスと呼ばれるものの原型になったのです。

彼はさらに考えを進めました。もしも原子が変化した結果、分子の振動に変化が起こってそれが身体から発信されているのだとすると、外部からそれに影響を与えることも可能ではないか?と考えたのです。
彼は病気に冒された組織のサンプルを容器に入れ、健康な被験者の頭の横に置きました。そして彼の仮説は証明されました。被験者は完全な健康体であったにも関わらず、あたかもそのサンプルと同じ病気にかかっているかのような診断反応を示したのです。

次のステップは理論的なものでした。もしもこれらの放射が電気的なものであるとしたら、それはケーブルを通じて伝えられるのではないか、という実験です。彼はケーブルの一端を被験者の額につなぎ、もう一端は仕切り壁の向こうに置かれた病に冒された組織サンプルに接続できるように準備しました。そしてエイブラムスが被験者を診る際に、ケーブルの一端を持った助手が、エイブラムスには分からないように、そのケーブルを何にも接触させないか、あるいは組織のサンプルに接触させるかを選択したのです。
再び仮説が証明されました。コードが何も接触していないときには反応がありませんでした。そして、助手がコードを組織サンプルに接触させたときのみ、その健康な被験者にサンプルと同じ病気の反応が出たのです。彼はサンプルとなる病気の種類を変えて研究を続けました。その結果、健康なはずの被験者が見せる反応は、彼が作成した打診用の人体マップに一致することがわかりました。

この一連の実験で、組織サンプルの代わりに、患者の血液を使っても同じ結果が得られることがわかりました。この時点で、患者の診断をするには血液で十分、ということになりました。もはや、患者本人がそこにいる必要はなくなったのです。この血液サンプルを使う方法は、現代においても、その他の形態形成場の情報を含むもの ー 唾液、尿、髪の毛、爪などとともにラジオニクス分析のためのサンプルとして使われています。

その後の研究ではさらに興味深い効果が発見されました。健康な被験者を、マラリアの抑制薬であるキニーネにつないでおくと、マラリア患者の血液と一緒に測定してもマラリア特有の反応が現れなかったのです。彼は伝統的な方法では発見できなかったさまざまな病気における効果的な対処法を発見しました。

 

飛躍的な展開

ERA法にはまだ欠点がありました。いくつかの異なった病気が腹部の同じ場所で同じ反応パターン(鈍い音/スティック)を起こしてしまっていたのです。例えばガンと梅毒は同じ場所で同じ音で反応するために識別が不可能でした。エイブラムスが以前に行った別の研究で、病気は体内の原子の電気的な結合を変化させてしまうことがわかっていたので、これらの電気的な手法を論理的に統合させてこの問題の解決を図ることになりました。
最初に彼は、被験者と組織サンプルの間に電気抵抗を入れてみました。しかしそれは単に電気信号を弱めるだけのようでした。しかし、さまざまな試行の結果、不思議な効果が発見されました。電気抵抗を50オームに設定すると、ガンに対する反応は出るのですが、梅毒に対しては出ません。それを今度は55オームにすると、梅毒では現れてガンでは出なくなったのです。

reflex

これは全くの飛躍的な展開でした。血液サンプルと被験者の間に普通の電気抵抗のボックスを接続して、その抵抗値を変えて「チューニング」することで病気が判別できるようになったのです。エイブラムスは、彼の「Reflexophone(レフレクソフォン)」と呼ばれる、非常に正確に電気抵抗値を測定できる装置を使って、それぞれの病気ごとの値を測り、それを彼の打診用人体マップに記入していきました。彼はまた、血液サンプルをコンデンサープレートの上に置くと音の反応が増すことも発見しました。彼はこの装置を「Dynamizer(ダイナマイザー)」と呼びました。



最初のラジオニクス治療装置


しかしまだ何かが欠けていました。診断は完璧でも治療がまだできなかったのです。2つの観察から彼の「ミッシング・リンク(欠けた輪)」への探求が始まりました。ひとつめは、キニーネのような治療薬の振動が打診における音の効果を打ち消したこと。ふたつめは、地球の磁場が、それに匹敵する効果を持つこと。彼が考案したERA法で診断するためには、患者は常に西を向いていなければなりませんでした。その他の方角は全て、この打診による音を消してしまうのです。
このことが、電磁気の刺激を使った実験へと繋がってゆきました。才能に恵まれた開発者だったサミュエル・ホフマンと共にさまざまな試行錯誤を繰り返した後、最初のラジオニクス治療装置である「Oscilloclast(オシロクラスト)」が作られました。Oscilloclastは毎秒200回のサイクルを持った弱い電波を発生しました。そしてその回路の一部として患者はこの装置につながれました。

osciloclast

Oscilloclastとその後改良されたReflexophoneによって、ここに完全なラジオニクス装置ができあがりました。その診断/治療にかかる時間は約1時間でした。
ERA法はこうして完成され、彼の生徒や仲間たちに何年間も教えられました。電気抵抗を入れただけの簡単な箱は「魔法の箱」として神秘化され、製薬業界・医学界の権力者たちの間には大きな危惧が広まっていきました。さらにこの頃、ロックフェラーは製薬会社に多大な投資をしており、エイブラムスの電気的な治療をいかがわしい信用ならないものだという領域におしこめてしまうために非常に効果的な運動を繰り広げました。こうしてこの技術は、不合理で馬鹿げたもの、というカテゴリーに分類されるようになってしまいました。
1924年、突然の死によってエイブラムスのたゆまぬ研究は終わりを告げました。その後長い年月、彼の研究を受け継ごうという研究者は現れなかったのです。

 

植物の治療

もしもエイブラムスのERA法の基本的な理論が正しければ、これは全ての生命体に適応できるものだと考えたカーティス・P・アプトン(Curtis P. Upton)は、エジソンの共同研究者の息子でした。彼は植物に働きかける方法を探していたのです。彼はこの目的のためにエイブラムスの装置を改造しました。
彼が開発した装置は、エイブラムスのものよりも高い周波数を使い、2つのエンハンサー(Dynamizer)を備えていました。この装置はアプトンと彼の同僚のイニシャルから「U.K.A.C.O.」という名前で知られるようになりました。彼らは会社を設立しました。

彼らは1960年代全体にわたって活動しました。彼らの方法は1本の植物だけではなく、植物が群生している土地全体に効果を及ぼすことが可能でした。こういう処置をするために、彼らはしばしば航空写真を利用しました。現在でもドイツや他のヨーロッパの国々では広大な公園や森林がラジオニクス的なバランス処理をされています。バランス処理のために使われる写真をラジオニクスでは単に「サンプル」もしくは「ウィットネス (Witness)=証拠」と呼びます。

 

生命エネルギー写真を開発した女性

人体におけるサトルエネルギーの利用の話に戻りましょう。ラジオニクスとは切っても切れない女性、ルース・ドラウン(Ruth Drown 1891-1965)の登場です。彼女はカイロプラクティック療法士で、大変若くしてラジオニクスに接しました。彼女はおそらくエイブラムスの病院で働いていたようで、大変直感力に優れた、主にひらめきに導かれて行動するタイプの女性だったようです。

drown

彼女は、腹部に当てていたガラス棒の代わりに「スティックプレート」を最初に使った人物、と言われています。彼女の「スティックプレート」は薄い金属でできていて、その表面はうすくゴムでコーティングされていました。「レート(抵抗値)」が正しいと、腹部に当てたガラス棒と同じようにある種の「くっつく」反応が見られました。
ラジオニクスについて彼女は、エイブラムスとは全く異なった理論を持っていました。彼女の理論とは、人間は体内に「生命エネルギー」を持っていて、そのパターンが病気によって変化させられてしまうのだ、というものです。彼女は装置に適切な「レート」を置くことによってラジオニクス装置と患者を結ぶ回路の輪を完成させました。適切な「レート」を適用することによって、病気が生み出したエネルギーパターンの狂いを修正しようとしたのです。このようなバランスの方法を発想した彼女はとても時代に先行していたと言えるでしょう。

彼女は考えを進めます。上に述べたような「生命エネルギー」は全ての人間に存在し、そして、各個人の「全体の情報」を持っているのではないか、と彼女には感じられました。量子物理学においても、生命というものを理解するためにホログラム写真を比喩として使いながらデヴィッド・ボームやその他の人達によって彼女のような考えが検討され始めていました。
彼女にはさらに時代に先行しているものがありました。彼女は人体の一部、例えば血液や髪といったものを回路の中に置くことで診断だけでなくバランスのためにも使っていたのです。彼女は初の遠隔処置を行い、それを「ラジオ・セラピー」と呼びました。

彼女の使った装置はエイブラムスのものを高度に改良したもので、9つのセッティングがありました。この装置で、非常にたくさんのレートが発見されました。彼女はまた「色」も使っていました。いくつかのノブの調整によってプリセットされたさまざまな色の周波数を利用できるように作られていたのです。この装置は「ホモ・ヴィブラ・レイ(Homo Vibra Ray)」という名前で、彼女の考えた人間と生命エネルギーの関係が表現されたものです。
彼女のさらに大きな研究は、彼女が「ラジオ・ヴィジョン(Radio Vision)」と呼んだラジオニクス写真の研究でした。彼女は離れたところから患者の病んだ組織の写真を写すことができました。この研究は後にジョージ・デラワーによって引き継がれることになります。

 

FDAによる弾圧

第2時大戦の前に彼女はイギリスを旅して、この技術に興味をもつたくさんの医師たちにラジオニクスを教えました。これらの成功によって彼女はたくさんの友人を得ただけではなく、多くの人から妬まれることになりました。伝統的な医師たちはFDA(アメリカ食品医薬品局)の力を借りて、ラジオニクスを、またそれによって成功を収めているルース・ドラウンを葬り去ろうとしました。彼女は逮捕され、その投獄期間中に彼女の装置類の多くは破壊されました。彼女は釈放されましたが、その時にはもう廃人同然で、ほどなくして脳卒中で亡くなりました。
オルゴン・エネルギーの研究で知られるヴィルヘルム・ライヒ博士(Wilhelm Reich)にも、同じようなFDAの弾圧がありました。

 

トーマス・ゲイレン・ヒエロニマス(Thomas Galen Hieronymus 1895-1988)もまたエイブラムスの足跡を受け継ぐ非常に重要なパイオニアのひとりです。

hironymus

彼はラジオニクス装置の開発者で、彼の装置の中には光学プリズムと電子管を使ったエンハンサーが組み込まれていました。彼は1949年9月27日に「物質からの放射物の感知とその量的な測定」という項目でアメリカの特許第2.482773号を取得しています。彼の装置は大変有名になりました。というのは、この装置に興味を持ったたくさんの人々がアメリカ特許局に資料のコピーを申し込み、自分たちで装置を自作し、果たしてそれが動作するものかどうかを試したからです。そしてそれは……動作しました!

エイブラムスはかつて明言していました。電気的な振動装置は最終的に失敗するだろう、何故なら、その装置はスイッチが入っていてもいなくても働いてしまうことが明らかになるからだ、と。ドラウンの装置にも電源はありませんでした。彼女によれば、それは患者の生命エネルギーを動力源として使用するからだ、というものでした。ヒエロニマスの装置が注目を集め、動作したことによって、ラジオニクスはその有効性について再び激しく議論されることになったのです。


イギリス:ラジオニクスの先進国

ラジオニクスの成立が決定的になったのは最終的にイギリスにおいてでした。イギリスは今日にいたるまで、ラジオニクスの先進国であり続けています。
第2次世界大戦における輸入制限で、イギリスはアメリカからラジオニクス装置を輸入することができなくなりました。そこでイギリス人の技術者、ジョージ・デラワー(George De La Warr 1904-1969)が「ドラウン型」の装置を製造することになったのです。これを契機に広くラジオニクス装置の開発が始まりました。彼が研究を進める傍らで、妻のマージョリーはよくできたラジオニクスの実習法を考案しました。デラワーはレオ・コルテ、スティーブンスというふたりのラジオニクス信奉者とともに「デラワー研究所」を設立しましたが、そこは今でもラジオニクス研究の世界的な中心地と考えられています。

delawar

デラワー夫妻は、「レート」をよく研究することが重要だと考えていたので、膨大な量を収集・整理しました。さらに病理学者たちとの共同作業によって4000以上のレートを産み出しました。それらは今現在も使われています。というのは、装置自体が電源の有無に関わらず動作するので、レートというものは実は電気抵抗の値ではなく、むしろコードナンバーやキーであり、その配列そのものがさまざまな体内の器官や機能に働きかけるのではないか、と考えられるようになったからです。
またデラワーは、自身が「Nodal Point Lattice」と呼ぶ理論に基づいたある種のエネルギー交換を確認していました。彼の理論は、ハロルド・S・バーの「L-Fields (生命場)」の理論に刺激されていたものです。今日、これらのエネルギーは、ゼロポイントのエネルギー、スカラーエネルギーなどと呼ばれ、携帯形成の場において情報を伝達する担い手であると考えられています。
デラワー研究所では、より詳細で複雑なレートを作り出すために、たくさんの装置が開発・改良されました。現在ではそのレートの数は5000以上になっています。測定値を決定するスティックプレートも使われていました。
デラワーにはそのスティックの強さや測定の精度には地磁気に関連して回転する磁石で影響を与えることができることが分かっていました。これはCRP=Critical Rotation Point、エイブラムスが西向き以外では被験者に反応が起こらないことを通じて発見したもののある実践理論でした。

dewar

デラワー夫妻はまた、「デラワー・カメラ」と呼ばれるラジオニクス写真機を開発しました。サンプルをCRPに向けると、体内組織の写真を一番良い状態で撮影することができました。このカメラは1955年にフランスの特許第1.084.318号を取得しています。(また数多くの装置がイギリス本国で特許を得ています。)ドラウンのカメラとデラワーのカメラはいくつかの点で明らかに異なっていましたが、共通していたのは、価値のある写真を撮影するためには誰が操作しても良いということではなく「ある種の」人々が操作しなければならなかった、ということです。ある種のサイキックな力を持った人が操作をしないと、このカメラは正常に働きませんでした。このカメラが使用されていた期間、10000点以上の写真が撮影されました。


ラジオニクス協会

1960年2月27日、デラワー夫妻を含む11人のラジオニクス実践家たちによって「ラジオニクス協会」が設立されました。現在では500人以上のメンバーがいて、プロフェッショナルなラジオニクス療法士の会合や、免許の発行、3年間に渡る教育プログラムなどを行っています。

同じ1960年、デラワー夫妻は詐欺の容疑で出頭命令を受けました。ラジオニクス装置を購入したある女性が、それを使えなかったのです。彼女はラジオニクスはインチキ科学だと主張し、この件は法廷で争われることになりました。この裁判は、ルース・ドラウンの場合とは違った形で進みました。ある医師たちが、これはラジオニクスを追放するのに絶好のチャンスだと考えていたにも関わらず、数多くの支持者たちが援軍に加わってくれたのです。一般大衆もデラワーのラジオニクス技術に大いに興味を示す結果となり、裁判はデラワー側の勝利に終わりました。しかしまたその一方で、彼らは膨大な裁判の経費によって破産の危機に瀕することになりました。訴えを起こした女性は貧しく、裁判経費を支払うことができなかったのです。
しかし、この事件によってイギリス国内におけるラジオニクスはその立場を確立し、もはや躍起になってその有効性を立証する必要がなくなったのです。ジョージ・デラワーは1969年に亡くなり、妻のマーゴリーが1985年に亡くなるまでその後の研究所を引き継ぎました。その後は設立者のひとりレオ・コルテが、その後はデラワー夫妻の娘、ディアンヌが引き続き近年まで研究を続けました。

ヨーロッパ各国におけるラジオニクス療法士たちは、現在ではラジオニクスの知識を一般に広めるために団結しています。イギリス、イタリア、ドイツ、スペインにラジオニクスの団体が存在しています。

イギリスにおけるラジオニクスでさらに重要な3人を挙げるとすると、マルコム・ラエ(Malcolm Rae 1913-1979)、デビッド・タンズレー(Devid Tansley 1934-1988)、そしてブルース・コーペン(Bruce Copen 1923-1998)でしょう。

tansley

デビッド・タンズレーは、東洋哲学に影響された新しいラジオニクスのコンセプトを作り出しました。ラジオニクス協会の中で大きな影響力を持っていた彼は、例えばエネルギーのセンターとしてのチャクラといったコンセプトを導入することで従来のラジオニクスをより精妙な領域に前進させました。ブルース・コーペンは「ラジオニクスコンピュータ」と自身が呼んださまざまな種類のラジオニクス装置を作り出しました。ただし、彼のいう「コンピュータ」は現在の実際のコンピュータとは全く違うものでした。

 

マルコム・ラエと彼の装置

malcom ray..............................................ab

マルコム・ラエはまた違った道を歩みました。彼はスティックプレートを使わずに「振り子」を使い、またデビッド・タンズレーがそうであったうように、数字としてのレートを使わずに、幾何学的な図形を使いました。彼は数字でできたレートよりも幾何学図形を使ったほうが、より正確な反応が得られる、と感じていました。現在の科学的な理解からすると、彼は右脳半球をより強く働かせる方法をとった、ということです。彼にとってのレートは「Manifested Thought Pictures(明示された思考の絵)」と呼ばれ、それを診断や治療のための装置のチューニングや測定に使いました。幾何学的な表現は主にホメオパシー物質のポテンタイズの目的に使われたので、彼は「レメディーシミュレーターカード」と呼んでいました。この「Manifested Thought Pictures」のようなものがレートとして使える、ということはヒエロニマスの装置がなぜ電源を入れなくても使えたのか、ということを説明してくれるかもしれません。

 

ペゴッティ・ボード(Peggotty-Board)

pegoty

幾何学的なレートは、「ペゴッティ・ボード」と呼ばれる新たなラジオニクス装置で脚光を浴びることになりました。レートを設定するためには、その幾何学的図形と同じ形になるようにボード上のピンを差し替えるのです。それはたてよこ12本×10本のスペースにピンを差して幾何学的な図形でレートを表現する、という構造のものでした。
また、French Universal Pendulum(振り子)を使って、さまざまな「角度」や「位置」からもレートが開発されました。このことは占星術や星座といったものに新たな光をあてることになりました。ラジオニクス的に見れば、それらは占星術的なレート、と見ることができたのです。

 

 

コンピュータの登場

 

 

その後、エイブラムス博士によって最初にラジオニクスが始められた国・アメリカから、最も進化した最新の装置が登場することになりました。1986年、物理学者で電気技師、また発明家であったウィラード・フランク博士が、初めてコンピュータを使った装置、「SE-5 Intrinsic Data Field Analyzer」を開発したのです。そして1998年にそれは「SE-5plus」として改良されました。

 

 

Dr. Willard Frank

 

2008年、フランク博士が亡くなるとその後をドン・パリスが引き継いで再設計に着手、それが現行モデルのSE-5 1000となりました。この装置は「固有情報場(Intrinsic Data Fields=IDF)」を分析しバランスするものとしてよく知られています。ラジオニクスは、その現象を引き起こすものについての理解が進むことによってその様相を大きく変えました。SE-5 1000は伝統的な意味での「医療」には使われていません。むしろギャップは広がっています。非常に応用が効く設計になっているために、今では鉱業や農業、さまざまなビジネスに使われており、その使用法は日々拡大しています。

se-5

デラワーやドラウン、コーペンたちの装置と同じく、SE-5 1000もスティックプレートを検知器として使っています。しかしそれは、これまでのようなゴムの皮膜ではなく、電気回路の基板になっており、その下には幾何学的に配置された回路とスカラー・アンテナが配置され、スカラー情報の場、IDFに正確にチューニングし、増幅できるようになっています。
コンピュータを搭載することによって、たくさんのダイヤルを回してチューニングを合わせる必要はなくなりました。数多くのプログラムが最初から本体に内蔵されており、さらに、USBインターフェイス経由で外部にコンピュータを接続すれば、数多くのチューニングを組み合わせるような処理も格段に容易になります。分析処理もシンプルになり、チューニングを見つけ出すための時間も大変短縮されました。現在、使用可能なチューニングの数は、17,000を超えています。

Last Updated (Thursday, 21 July 2011 16:59)